2020年04月01日

全ての人の心に生き続けるだから、笑おう!

志村けんさんがお亡くなりになった。
すべての人に必要な方だった。
いつかご一緒できることを信じていたのにそのチャンスすら失ってしまった。
コロナのせいでご家族の方は志村さんを看取ることも、最後に手を握り、そばにいて声をかけることもできなかった。
お骨を、拾うことも許されなかった。

私もそうだった。
私の父は14年前の8月15日、終戦記念日の日に父の人生の戦いを終えた。
父は空手界の宝と言われた偉人だった。
剛である空手の概念を打ち破り、流派を問わず学びたいものには国境、性別、年齢、キャリア関係なく広く門を開いた。
その考え方は、当時の日本ではありえない事だった。
空手の段審査の規定、試合の規定を整え、決めて、そのため40種類以上もの形を創り出した父だったが、日本のメディアには出ようとしなかった。
父は、国境問わず、老若男女問わず、空手は生涯やり続けるものであると言う理念から、生涯空手ができる稽古の仕方を構築していた。
のちに車椅子空手も世に広める事になる。
父の理念、信念、考え方全てがその当時の日本の空手界には異端児としてしか映らなかったようだ。
だからこそ父は空手を海外に広める想像もつかないような苦労に思いを馳せた。

ハワイ、台湾、ロシア、香港、中国、エジプト、南米アメリカ、カナダなど
本当に多くの国々にわたり、その国々に空手を根付かせてきた。
諸外国では日本では異端児とされた父の考え方は受け入れられ、諸外国のメディアでは常に取り上げられていた。
多くの格闘家達も、アクション俳優たちも父の技の門を叩いた。
命の灯火が、消える直前までロシアを始め諸外国に空手を指導していた父。
まだ71歳だった。
父の技を本当の意味で受け継ぐものは、まだいなかった。
多くの武術家達や格闘家たちは父の技を受け継ごうと無我夢中で父のレクチャーを受けていた。

父の命の灯火が消えたとき
日本以外の世界の空手界では、
父からまだ教わりたいことがたくさんあったのに、なんで私たちを置いて死んでしまったんだ。と悲しみの声が耐えなかった。

一人娘の私は、父が危篤になるまで舞台作品のファミリーミュージカルの脚本・演出・プロデュースをしていた。
わすれもしない千秋楽の夜。雨が降るはずがなかったのに、
突然の雷鳴がとどろき、大雨が公演中に降り出した。
そのきの、稲妻をみたキャスト達が、
龍にみえるといった。
その言葉を聞いたときなぜか私は直感で、父が帰らぬ人となることを悟った。

その雨と雷鳴は、ほんの数十分でやんだ。

舞台が全てを終了しスタッフをねぎらうために打ち上げ会場へ。スタッフをねぎらってから、早めに父の病院に行くつもりだった。
しかし、母から電話があり、私の公演が終わり、落ち着く時間までまって電話をしてきたとのこと、そして「父が危篤だ」との事。
やっぱり、あの龍は父だったかと、、。
私と家族同様に苦楽を共にしてきたRHYTHM COLLECTIONオリジナルメンバーの皆が、一緒に病院に駆けつけてくれた。
もう意識はなかった。呼びかけても何の反応もない。
メンバーも全員父を囲んでその時まで奇跡を信じてそばにいてくれた。

私は悩んだなぜなら
父が、入院することになった時私を病室に呼び、今までにない殺気とも違う、穏やかとも違う。そのどちらもあるというのが正しいのかもしれない。
そんな、今まで感じたことのない、目の前にいる私の五感にビリビリと伝わってくる何かがそこにあった。

父は優しく微笑んで私に言った「もし、わしの意識がなくなることがあったら、お前がわしを殺せ」
それが、父と話した最後の言葉だった。

親戚は。まだ、病院にはきていない。
メンバーと母が父の奇跡を信じて願って祈っている。

私は父の言いつけを守らなければならない
私は父の言いつけに逆らったことがない
父は私にとって、親である前に、偉大な師。
師の言うことには従わなければならない。

どうやったら父の願いをとげられるのか
みんなが奇跡を祈っている時
奇跡を祈りながらも私は父の言いつけを守らなければと考えて、どのように決行するか考え、手が震えていた。

結果
私は父を裏切った。
父を傷つけるようなことなどできるはずもない。

心音が止まる音が鳴り響いたとき。
母もメンバー全員泣き崩れた。
私だけが、呆然としなが、心中で父に謝り続けた。
言いつけを守らなかった事を。

そして、私は、
父も同行するはずだった、私とRHYTHM COLLECTIONのベトナムとの文化交流親善大使の任務で、一人っ子の長女なのに、
父の本葬に参列できず、ベトナムへ。
だから、私も志村けんさんのご家族のように骨を拾っていない。
私はまだ、父をみとることはできたが、骨を拾っていない。
だから、私の心の中にはまだ父は生きている。
いつもそばにいる気がしている。
呼べば「なんじゃ」ときて、
私の武術のいたらないところを指摘して、稽古をつけてくれる。
14年たった今でも、そう思って、つい、父を呼んでしまうことがある。

志村けんさんのご家族も、きっと、何十年たっても、私と同じ感覚におちいるのではないだろうか。

「その時」はなぜ骨も拾えず別れもできないのかと強く悔やんだが、
今となっては、それが父の配慮だったかもしれないと思うようになってきた。
父は、いつもそばにいる。
そばにいて、何かを語りかけてくれている。
志村けんさんもきっとそうなんだろうと思う。
みんな元気か
みんな笑ってるか
そうおっしゃるているに違いない

だから、悲しんではいけない。
讃えよう。
残された私達は、
早くして逝ってしまった偉人達を。
讃えよう。
安心して、天国で笑ってもらえるように。

だから、笑顔だ。
こんな今だからこそ、
どんな小さな事でも良いから
面白いことを見つけて笑おう
道端に生えている雑草の健気さを見て、かわいいと思って笑おう

みんなで笑って、今を協力しあって、
笑っていきよう。

いつか、この苦しみと恐怖と悲しみが笑い話になるように。

みんなで、笑おう。

暗い顔や畏れは、コロナのおもうつぼだ。

長い自粛だが、
ここは笑顔で、日本が一つになって、
コロナに負けない!
みんなで負けない!


みんなで笑顔だーー!


hoshimi777 at 05:31 この記事をクリップ!
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